「ノートルダムの鐘」を心理学的視点で

今回は、現在京都劇場で上演中の、ミュージカル「ノートルダムの鐘」について、考察してみたいと思います。3年前に初めて観て、物語のメッセージ性とクワイア(合唱隊)の迫力とに圧倒され魅了された作品で、また観たい!と思って観劇に行ってきました。

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ビクトル・ユゴーといえば、「レ・ミゼラブル」で知られていますが、こちらの作品も負けず劣らず良い作品です。原作は長過ぎて暗いのであまりお勧めしませんが、ミュージカルは人間関係も分かりやすくまとめられており、話の展開も現代人にとっても受け入れられやすい形に変えられています。それでも、この話の根幹をなす重要な部分については、そのまま描かれています。

聖職者が絶対的な権力を握っていた時代の話ですが、その聖職者が悪役として描かれるのは衝撃的です。本作に出てくる大助祭・フロローも、生真面目で厳格ゆえに凶行に走ってしまいます。エスメラルダに惹かれながらも、力ずくでしか近づけないし、拒否されたと思ったら死刑にしようとするなど、度を越した復讐心を持っています。

フロローに必要なのは、社会的役割を外せる第三の場なのではないかと私は考えます。多くの人は、学校・職場と家庭などでそれぞれ期待された社会的な役割を担っています。私の場合ですと、職場ではカウンセラーの役割をしていますが、家に帰ると母親だったり妻だったりという別の役割があります。そういった役割の仮面をかぶらず、ただの人として存在する、そんな時間が人には必要です。職場から帰る前に、居酒屋で一杯飲んでから帰りたいという人も、職場でも家庭でもない「ただの酔っ払い」になる時間が欲しいのではないでしょうか。私にとっては、フィットネスに行っているときや観劇しているときがその時間です。

フロローにはそんな時間が全くなく、常に聖職者としての仮面を被って生きていたのでしょう。カジモドとの関係性も、父親代わりというよりも聖職者の主人と使用人という関係に見えます。そのため、聖職者として女性に惹かれるなんてあってはならないことが起きてしまい、自分自身でもその欲望をどう扱ったら良いか分からなかったから暴走してしまったといえます。一人の人間として存在する時間があれば、立場上どうにもできなくても、恋愛感情が生まれたのだな、と自分で受け止めることができたでしょう。自分の気持ちに蓋をせず向き合うことができたら、案外その気持ちを手放しやすくなるものです。自分の権力を濫用してまで、エスメラルダを追い詰めることはなかったのではないでしょうか。

皆さんにも、「誰でもない自分」になれる時間や場所、ありますか?思いつかない場合は、カウンセリングなど、利害関係のない人と話す機会を設けてみるのも良いですよ。

カジモドのことにも触れてみたいですが、止まらなくなりそうなので、この辺りで終わります。

 

MEDI心理カウンセリング大阪

公認心理師・臨床心理士 可児

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